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SpiltMilk

デジタル一眼レフカメラ「EOS6D」と「60D」でのあれこれ。世界一周やめての途中で帰国した阿呆の写真・動画ブログのはずだったんだけど最近なんなんだかよくわからなくなってきている適当な何かしら。

『悩む時 木の葉のように 途中下車』

毎日が憂鬱だった。何かあったわけではない。毎日何もないことが問題だった。毎日は何もないのに、こなさなければならないことは山積み。自分ではこなすことのできない問題も山積み。だから何があったというわけではない。
そんなことは誰にでも当たり前のことで、大きな嫌気の指す理由でもなんでもない。ただ問題しかなくて、何も面白いことはない、そんな当たり前の朝。




市街地から少し離れていることもあって空いてるいつもの通勤電車に、いつものように憂鬱な足取りで乗る。もしかしたらいつもよりも若干憂鬱だったかもしれない。もしそうであるならば、もしかしたら明日はもっと憂鬱かもしれないな、なんてなんの意味もないことを考える。そう己に皮肉づいてみると、不思議と少しだけ憂鬱な気分が薄れたような気がした。でもそれは一瞬のことで、こんな適当な自虐ジョークを一人で自分に向けて発して少しだけ気分が晴れた自分が、どうしようもなく惨めに思えて気分はより憂鬱になった。明日はきっと今日よりも憂鬱な足取りになることはないだろうなと、また憂鬱な色が今日の頭の彩った。

2、3駅進み、窮屈ではないにしろ車内は混んでくる。さらに2駅すれば僕は自分の鞄を必死に掴みながら痴漢に間違われないように祈りつつ、小さな声でクスクスと盛り上がる高校生の話に耳を傾けるくらいしかすることがなくなるのだ。
停車。
進行方向右側のドアが開く。誰も降りることはなく、ただ次々と人が乗ってくるためだけに開くドア。次の駅では今日もまたぎゅうぎゅう詰めになることだろう。それを考えてまた憂鬱になる。乗ってくる人をドアの脇に立って眺めながら、ふとドアの外に目をやった。
ホームの脇に木が生えているのが見える。もう葉も散り始め、鬱蒼としていた夏とは違い、細い枝にこれから今にも落ちそうな葉がポツポツとついている姿は物悲しいながらも爽やかな、というと少し違うかもしれないが悪くない印象を受けた。それは木の葉とは逆にこれから混んでくる車内で鬱々としている自分を比べたからなのかもしれない。
鬱蒼、なんて考えてしまったせいかさらに気が滅入る。今日は鬱という字と出会いすぎだ。厄日なんだろうか。

そんなことを考えていたら、車掌の吹く笛の音が聞こえた。もう心地よい風の入ってくるこのドアも閉まって発車か、とまた外に目を向け、さっきの木を眺めた時、ちょうど僕の見ていた葉っぱが、風に揺られもせずに、散った。

気が付けば僕は一人ホームに立っていて、背中のほうでは電車のドアの閉まる音がしていた。


『悩む時 木の葉のように 途中下車』
●今までに行った場所一覧はこちらから → 『世界一周で周った場所一覧』
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