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SpiltMilk

デジタル一眼レフカメラ「EOS6D」と「60D」でのあれこれ。世界一周やめての途中で帰国した阿呆の写真・動画ブログのはずだったんだけど最近なんなんだかよくわからなくなってきている適当な何かしら。

対価

お金を稼ぐのが苦手だ。

此処では働くのが嫌とか嫌いとかそういう意味合いでなく、
稼ぐ手段を行うことがへたくそだという意味合いでもなく。

どちらもそうっちゃそうなんだけど、言いたいのはその部分じゃない。
「お金を稼ぐ」と言う行為になんとなくの罪悪感を覚える。
お金を貰う、お金を持っている、ということによくわからない汚さを感じる。

どういう経緯でとか、お金の構造的などの部分にとか、ちゃんと理論立ててゆっくり考えればわかるのかもしれないけど、今は面倒くさいからそれはしないでいる。ただとりあえず自分はそう思ってしまうなぁという実感を改めてしましたというだけの話。

何かの対価としてお金は貰う。
給料、謝礼、謝金、俸禄、報酬とかなんかそんな言い方?
要するに物々交換である。本来なら物々交換で良いんだけど、それだと持ってるものしか渡せないし、なんだかんだ面倒だからその間に入るオールマイティなものとしてあるものがお金だと思っている。
生きていくには食事をしなければならない。だから食べ物がいる。だから食べ物を作る、ってなふうにみんな出来ればそれで良い話だけど、そうではないから作っている人からもらう、ってな話になる。でもただでもらうわけにはいかないから、代わりに何かと交換してもらう。それが労働力としてでも良いし、その人が必要としているものでも良いし、何かしら娯楽でも良いし、ってなふうに出来ればそれで良い話だけど、そうではないからその仲介するものとしてお金がある。
なんだろ、この構造が嫌いなのかな。

それと「必要以上に」っていうのも好かない要因かもしれない。
物々交換の延長だから必要な範囲あるならそれはそれでまぁいいんですよ。
なんつって今の僕は必要以下しかお金のない阿保垂れなんで、ちゃんと働けってのは重々承知だし何が言いたいのって思われるのも理解している。何が言いたいんだっけ。

必要不必要ってのも未来への蓄えとか、今後大きなことに使うんだとか、子供に残すんだとか含めたらなんも言えない話なんだけど、まぁそういう部分があるとして、不必要なまでに稼ぐってのもなんとなく違和感がある。
報酬ってのは対価なわけだ。その価値は誰が決めるのか。場合によりけりだ。
でも報酬や謝礼で「儲け」が出るならそれは対価じゃあないんじゃないかっていう気になる。
そうしないと生きていけないってのはその通りだし、それじゃないと社会なんて回らんだろうから、狭く限定した関係性においてしか言及できないけども。ただどうしてもそういう違和感が昔からある。

でも自分が働いていたときにはそう感じなかったように思うので、何かしら目的意識があればそれは必要ということになって無意識的に肯定していたから変な気はしなかったのかな。それにどう考えても貰っている給料以上の働きはしていたなという自信も確信もあるし。書いて思ったけど自分で自分について自信を持っていえる数少ない部分だと今気付いた。割とまともに働いてましたよ僕。

ちょっと待ってね、読み返してみたらなんかめちゃくちゃなことを言っているな。なんだこれ。
これは他人の行為どうこうについて書いているものではないです。ただ自分の感覚的な、自分はこう感じてしまうんだよなぁということを書いているだけなので、人間として余剰な金を稼ぐのは悪だ!とかそういうことが良いたいのでは全く無い。自分が碌に働いていないことへの言い訳がしたいのでもない。いやどっちかっちゃあそうかな?
でも書き始めて言いたかったのは、今後ちゃんとお金稼いで生きていこうと思っておりますよ、というそれだけである。全然そういう文章になってないけど。

今現在自分が適当に生きてしまってきたことによる対価をバッシバシ食らっているわけですが、まぁそれも踏まえてちゃんと生き直さないとなぁと。そういうお話をしようと思いまして、その前になんとなくこんなことを考えてるなぁってのを残しておこうと思った次第。
この文章も文章にしておかなきゃなぁと気分乗ってない状態で無理やり書いているからこんな感じになっている。でも強制していればそれが習慣になるさね。

タカイタカーイの対価はいくら?

お店で「こっちは客だぞ!?」とか「金払ってんだぞ!」みたいなことを言う人がいるという話を聞くけど、これ本当に意味がわからない。前述の通り物々交換なのでそこに上下なんてないじゃん。同じようなサービスがたくさんあるから、そこで競争が起こって客へのサービスをより向上させようという構造はわかるけど、それに胡坐をかく意味がわからない。
サービスないし商品を貰う、お金を渡す。サービスないし商品を渡す、お金も貰う。
なんにも変わらん。お金が間に入るからなんか話がおかしくなっている感。お金力持ちすぎじゃ。
このお店の店番します。ありがとう大根あげます、みたいなことでしょ。
その間にたっくさんの人間と工程が含まれているだけでさ。
歌を歌います。素敵です牛丼並み盛りあげます、みたいなことでしょ。
ホームページ作ってくれてありがとう御座いました照り焼きマックバーガーあげます、みたいな。
そっから本当ならわらしべ長者しまくらないと欲しいものまでたどり着けないんだけど、それはさすがに面倒だからお金である種省略しているのであって、お金払う人が偉いとかは全く無いじゃない。だからあの感じ大嫌い。

「お客様は神様です」っていうのも売る側がサービスの質を向上しようと言う意識のもと前提とするものであって、客が意識するものではあり得ない。頭悪すぎてやばい。

てろてろ。脱線。

自分が何かをすることの対価の設定の仕方がわからん。
自分が働いたと思えるほどじゃないからなのかもしれないけど、お金を受け取ると悪いことをしたような気になる。いやいやそんな対したもんじゃないよ、っていうね。でもたいしたもんじゃないってのは確実に失礼だし、適当なものを作っていると思っているわけでは全く無くて、自分の中では出来るだけ良いものだと思っている。でもやっぱりいやいやいやってなる。お金貰わないと生きていけないけどね。楽なバイトしてた時もそう。しているときは楽だなーこれでお金もらえるのかーって思ってるけど、いざお金貰うと碌に働いてないんだからこんなにはもらえないですと返したくなる。
自分の技術や経験に自信が持てて、自分以外には出来ないものだと思えたらそういう感覚はなくなるのかな。ということは自分に自信が持てればいいわけで、自分に自信を持つにはそれ相応のあれこれが無くてはならないのだね。ガムバロウガムバロウ。
お金貰っている大多数の人は自分のしていることとお金がちゃんと対価になっていると思えているのかな。そんなん気にしていないだけかな。

結局何が言いたかったのか。だらだら書くのはだめだな。でも思ったことは極力残すようにしようそうしよう。またポストエバーちゃんちゃんと使お。

ららばい。
●今までに行った場所一覧はこちらから → 『世界一周で周った場所一覧』
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