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SpiltMilk

デジタル一眼レフカメラ「EOS6D」と「60D」でのあれこれ。世界一周やめての途中で帰国した阿呆の写真・動画ブログのはずだったんだけど最近なんなんだかよくわからなくなってきている適当な何かしら。

西海岸(昭和)

一日をとても短く感じる、というのは、
日々の大半が繰り返しになってしまうからだと思っている。

何かを始めた時、最初の期間は時間を長く感じる。
高校や大学の行き始め、初めて訪れたところで過ごす時間。
でもそれに慣れ、行動の大部分を「繰り返し」が占め始めると、一日はあっという間に終わる。

そう思っていたのに、世界一周を始めてこの二週間ほど、とても時間の経過が早い。
来たことのないところにいて、したことのないことをしているはずなのに、
特に何をしたわけでもない、というような印象の受け方をしている。
つまりは「楽しい時間は早くすぎる」という場合のそれとはまったく違った感覚、ないし意味合い。

それはもしかしたら結局のところ世界一周をしていても、自身の日常の範疇でしか過ごしていない、過ごせていないということなのかもしれないなと思う。ただ目の前の景色が若干違うだけのいつもの毎日。

世界一周をわりと無感動に過ごしている自分に気付く。
感動、ないし感嘆「しなければならない」ということではないが、どうなんだろう。
単純にそれ相応のものをまだ見ていないというだけのことなのか、常にほぼ平坦。
感情の起伏が薄い。

すげー、とか言っているけど、それは言わなければならない気分から義務的に、事務的に言っているような違和感が自分のうちにある。そもそも「自分」という実感がとても薄い。
ゲームをしていてキャラクターを操作しているような、そういう類の感覚。
僕は僕の後頭部あたりに腰かけて、出っ張った窓から外を眺めていて、手足を動かしている。
誰かの言いたいだろうことを言ってあげている。
後退するけど、この文章だって誰かのために書いてあげている気分。

言うまでもなく、その誰かは自分なわけで。

自分が自分から離れている。なんだこりゃ。

僕の感受が死んだのか、日々を過ごすということ自体に慣れてしまったのか。
どちらにせよもしそうであるのなら、僕の時間はもう加速しかするわけがなく、
同様に固まった頭の前で世界は新鮮さを失うことしかできない。


小学校を卒業するとき、小学校で過ごした六年間は己の人生の半分にあたる。
しかし中高で過ごした六年間は、高校を卒業する時点で己の人生の三分の一しか占めない。
それゆえ慣れと相俟って、小学校時の同じ期間よりも短く感じざるを得ないのだろうと思っている。

人生に占める「一年」という重みは軽くなる一方だ。
残りの日数で考えるなら、その量は減り続け、価値としては重くなっているのかもしれないけれど。

僕はこのまま、酒のつまみに年食ってあっという間に死んでいくだけなんだろうか。

西日に照らされた西海岸を走る車の運転席で、タイトルの曲を聴きながらそんなことを考えていた。


申し訳程度に西海岸の写真をば。
決してテンションが低いとか元気がないとか、そういうことではない。

楽しく生きている。

酒が足りないのかな。
●今までに行った場所一覧はこちらから → 『世界一周で周った場所一覧』
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