「およげ!たいやきくん」についての考察 雑記 2014年08月14日 特にすることがないので暇つぶしに昔から気になっていた事を、しっかり考え尽くしてみたいと思う。童謡「およげ!たいやきくん」についてである。「およげ!たいやきくん」とは説明する必要もないほど有名だと思われるあの曲である。たい焼きがたい焼き屋店主と喧嘩して海に逃げ出し、最後は釣り人に釣られて食われるという一大スペクタクル。細部まで覚えていないという人も多いでしょうが、だいたいこんなストーリー。この歌の歌詞を今回はしっかり検証していきたいと思う。 順に歌詞を追って見てみましょう、と行きたいところなのですが僕が昔から最も気になっているところはもう初っ端も初っ端からなので、すぐさま本題に入ります。「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえでやかれて いやになっちゃうよ」これ。これが小さい頃から納得のいかない部分である。この発言ないし思考をしている誰かさんを含む「ぼくら」は、なんと毎日焼かれているのである。特に疑問に思わないですかね?話を進めやすくするためにこの発言者ないし思考者を「ぼく」とします。この「ぼく」は誰?この後のストーリーや歌のときのアニメーション、なにより歌詞のタイトルからすると間違いなくこの「ぼく」はたい焼きである。まず間違いなく誰でもそう考える。が、本当にそうだろうか?もし「ぼく」がたい焼きだとすると、一度焼かれたらまた焼かれるということはまず無いことだろうと思う。一度焼かれた後は売られて食べられるか捨てられるかだろう。万が一暖めなおすために焼くことがあったとしても、日をまたいで毎日毎日同じたい焼きを焼くなんて事はあり得ない。だから「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえでやかれ」るなんてことは起こりえないのである。でもまぁ普通の人は当然こう思う。別に「ぼく」を含む「ぼくら」が何度も繰り返し焼かれているんではなく、ただ同じ店で連続して焼かれている「ぼくら」であって、その中の一匹がある日逃げたんだろうと。そうだろうともさ。じゃあ、その毎日の経過を知っている「ぼく」はたい焼きなのか?個々それぞれのたい焼きに意思があるとして、逃げた「ぼく」は逃げた日に「たい焼き」になったのだから、それ以前の毎日の出来事を知る由も無いはずである。だから「ぼく」個人が鉄板の上で焼かれて嫌になって逃げる、ということは可能だが、その日以前の毎日を知っていて「その繰り返しを嫌がって逃げる」のは不可能なはずなのである。しかしここで新たな疑問を提したい。「たい焼きとはどの時点でたい焼きになるのか」。僕が思うに流し込まれた生地が鯛の形に「焼き上がった時」である。生地が鯛型の型に流し込まれた時点でもまだ到底たい焼きだなどとは言えないだろうし、片側焼かれただけの時点でもたい焼きとは言えないだろう。それゆえ僕が思うにたい焼きがたい焼きとしての自我を持つのは、「焼き上がった時」であるとしたい。と、するとである。たい焼きは「焼かれない」のである。焼かれるのはいつでも生地であって、それが焼きあがったものが「たい焼き」となる。だから「たい焼き」が焼かれることは無い。このことを踏まえて最初の歌詞を確認したい。「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんの うえで『やかれて』 いやになっちゃうよ」そう!この「ぼくら」!なんと焼かれている!つまり、前述したように当日以前の記憶を有していることと、焼かれているという事実から「ぼくら」はたい焼きではない、という答えを導き出すことが出来る。ではなんなのか。生地か?しかし生地だとしても、生地がそうそう何日も保存されて少しずつ焼かれ消費されるということはとても考えづらい。なんせ「ぼくら」は毎日焼かれていて、そのことを知っているのである。ではなんだ?ここで僕は思う。材料じゃないだろうか。たい焼きの主材料は「小麦粉」。つまりここで言われている「ぼくら」とは小麦粉のことだったのある。小麦粉であれば店内に数日に渡って保管されていて、自分の仲間たちが生地にされ焼かれている姿を見ていてもおかしくは無い様に思う。それは嫌にもなるだろうさね。小麦粉の意識単位が粉一つなのか袋一つ単位なのかまではわかりませんが、自分の仲間ないし自分の一部が毎日毎日焼かれている様を眺めるのは本当に嫌な気分だろうと容易に想像できる。…。…。いや違うな。ちょっと結論を出すの早まった。小麦粉が小麦粉としての意思を持っているとすると、それはどの時点で獲得されたものなのかということになる。小麦粉になった時点?粉末にされた時点?そうじゃないだろうさ。たい焼きとは違う。小麦粉になる前から同じ意識だ。つまりこの「ぼくら」は「小麦粉」ではなく、「小麦」なんじゃないだろうか。「およげ!たいやきくん」は植物としての小麦の歌なんじゃないだろうか!!古くから人間によって栽培され世界三大穀物とされる小麦!イネ科コムギ属に属する一年草の植物の小麦!その叫びなんじゃないか!「ぼく」である彼は!毎日毎日「ぼくら」は鉄板の上で焼かれていると言っている!それは何もたい焼きに限った話ではなくて!彼らは潰され!挽かれ!揉まれ!様々な形!様々な場所!様々な様式で焼かれ!パンに!ナンに!お好み焼きに!そしてたい焼きになっている!そういう歌なんじゃないのか!焼かれなかったとしても様々な種類の麺になったり、はたまたビールになったりウィスキーになったり。数千年という途方も無く長い時間の中で、人間にそのように扱われる同胞を見続けてきた「小麦」という集合意識が、唯一起こした行動。いや奇跡的に唯一起こすことの出来た行動。それが、「店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込む」ことだったんじゃないだろうか。普通に考えれば「あり得ない」で片付くような、ただの作り話の物語である。しかし、人間の歴史上、奇跡としか思えないような出来事というのもそう少なくは無い。何億、何兆という数では表すことも出来ないような、今までに消費されていった無数の小麦の祈り。それが通じたと思えば何もおかしなことではない。ある極東の島国の、海外沿いで焼かれていた何の変哲もないたい焼きが一つ、海に逃げたのさ。そして「まいにち まいにち たのしいことばかり」。動くことも出来ず、ただ風に揺られるだけだった彼らは、海の中で自由を謳歌する。普通のたい焼きならすぐさまふやけて終いだろうさ。でも彼はそうじゃない。普通のたい焼きじゃない。「たまには エビでも くわなけりゃ しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう」そう、エビを食べればふやけない。なぜなら彼は普通のたい焼きじゃないから。世界の小麦全ての祈りを背負っている、そういうたい焼きだから。でも、結局は彼も食べられてしまう。岩場の影から食べ物と勘違いして食いついた釣り針によって釣り上げられ、食べられてしまうのだ。海から引き上げたたい焼きを迷わず食べるようなちょっと頭のおかしい釣り人に、あっさり食べられてしまうのだ。とはいえ、この食べられるとわかったとき、彼は悲しくはなかったんじゃないかなと思う。彼はちゃんとわかっていただろう、と思う。このまま海で過ごしていても、自分はどうすることができるでもなし、ただ朽ちて消え行く存在だということが。自由に、ここ数日を楽しく過ごすことが出来た。でもそれぞれ存在には本分というものがあり、そして自分は別な生き物に食されながら反映する存在なのだと。それは間違いでも、弱さでもなく、そういう在り方なのだと。自由の中でそう実感することが出来たからこそ、「やっぱり ぼくは タイヤキさ すこし こげある タイヤキさ おじさん つばを のみこんで うまそに ぼくを たべたのさ」と思ったんじゃないだろうか。悲しく、たい焼きである己を憂いながら食べられたのではなく、その口元には笑みを称えながら食べられたのだろうと僕は思っている。※途中から飽きて適当になってますほんとすみませんでした。 ●今までに行った場所一覧はこちらから → 『世界一周で周った場所一覧』 PR