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SpiltMilk

デジタル一眼レフカメラ「EOS6D」と「60D」でのあれこれ。世界一周やめての途中で帰国した阿呆の写真・動画ブログのはずだったんだけど最近なんなんだかよくわからなくなってきている適当な何かしら。

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『笑いもの みんなの前で 教授もか』

足早に廊下を歩く。いま自分は興奮している。頭の中が滅茶苦茶だ。たぶんいくら隠そうと努力したって顔は真っ赤で、鼻息は荒く、ドタドタ歩いているんだろう。仕方ない。自分は興奮している。教室のドアを静かに閉めたことだけは上出来だ。だれもそんなこと気にもしないんだろうけど、これは自分のプライドだ。

そう思いながら拓也は法文学部棟二階の廊下を一人でずんずんと進む。中学や高校とは違い、授業中でも廊下にはたまに人がいるとはいえ、休み時間とは比べものにならないくらいに静かだ。今自分が何処に向かっているのか、何がしたいのか、このまま帰るのかこのあとの授業にも出るのか、もしそうならそれまで何処で時間を潰すのか、それらのことを考えることも出来ずに、ただどこかへ向かって廊下を歩く。ただ教室から離れたいだけだ。

「…くそっ」「…なんだよっ」
さっきから時折自分で呟いているがこれに意味なんかない。そう少しでも発散しないと全く落ち着けそうにないのだ。大学ってなこんなに幼稚なもんかね、と心の中で冷静ぶって毒づいてみる。なんなんだほんとに、くそ。
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『団子消失 駅のホームで 白い羽』

何かに誘われて俺はホームに降りた。

それは空気や雰囲気といってしまえば簡単なものかもしれないが、そう適当には考えたくなかった。その駅につくまでに見ていた車窓からの景色なのか、駅についてから見えた景色なのか。葉の落ちている木なのか、もしくはまだ緑色をしている針葉樹なのか、はたまた少し向こうの海なのか。
そんなに遠くの景色ではなくて、この静かなホームなのか、そこに静かに佇む柱なのか、古びているけど座り心地の良さそうなベンチなのか、ジュースの自動販売機なのか、大分前に閉まって長い間空いていないであろうシャッターに包まれた売店なのか。結局それらを含んだ雰囲気なのだろうと考えついて、最初に簡単に思った答えとなんら違いはないが、満足だった。



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『悩む時 木の葉のように 途中下車』

毎日が憂鬱だった。何かあったわけではない。毎日何もないことが問題だった。毎日は何もないのに、こなさなければならないことは山積み。自分ではこなすことのできない問題も山積み。だから何があったというわけではない。
そんなことは誰にでも当たり前のことで、大きな嫌気の指す理由でもなんでもない。ただ問題しかなくて、何も面白いことはない、そんな当たり前の朝。


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五感について

どうやら大抵の人は街灯などの強い光の周りに虹色の輪は見えないそうだ。光の尾も見えないかかなり短くしか見えないらしい。その事実を最近知らされてかなり驚いた。
写真に写った青空の雲や、絵に描かれた景色を動かして遊ぶことも出来ないらしい。実際には別に動いているわけではなくて、自分の視界に強い残像を作ることで残像の点滅によってそれが動いているように見えると言うだけの話だけど、それもしないらしい。校長が話している時の後ろの壁とか、並んでる他の生徒とか波打たせて遊ばなかったのかな。全校集まる集会の時とか暇だろそれじゃ。

たぶん己の眼のピントの限界も知らない。
たぶん自分の眼それぞれが白い色を緑に見えるのか赤に見えるのかも知らない。
たぶん目を開いたまま視界を意識的に真っ暗にしていって、目は開いているのに何にも見えなくするという事も出来ない。

他の人が五感で見ている世界と自分との世界とがあまりに違っていて本当に驚いた。
ただ無駄に遊んでいるというのもあるけど、日常で視覚についてここまで見え方が違うとなると、他の感覚についてもまた全然違うんだろうなと思わされる。そうなってくると同じ世界で生きているということなのかどうなのかちょっと疑問だ。

僕はカロリーゼロ飲料の後味が心から嫌いだし、あれに気付けないという人がちょっと信じられない。好き嫌い、という話ですらない。あの味はおそらく「スクラロース」によるものだと僕は思っているんだけど、それが入っていると全く知らない飲み物を飲んでもすぐに気付けるくらい独特の味を放っている。なのにけっこう違いがわからないという人がいる。今まではその意味が全然わからなかったんだけど、視覚であれほどに違うんだな味覚も違うんだろうなと納得させられた。

五感が敏感か、鈍感かというだけの違いなのかな。
それは発達するものなのか、逆に使わなくて衰えたものなのか。
必要ないものを無視できるということで、意識し直せさえすればまたどれも認識できるのか。
認識できないとはその個人の世界においては無いと同義なのか。

僕は小さい頃から一人遊びが好きだったので、こんなことばっかりしていた。
目の前に立てた指が、右目と左目では場所が違って見える、なんてのの延長だ。
普段無視しているけど、自分の肌のほとんどには服が触れている。それを意識的に感じてぞわぞわする遊び。最初に書いた視覚についても全部そうだ。物の見え方をいろいろ検証し続ける遊び。そんなん片目でしてたから斜視気味なのかな。
一番面白いけど怖いしいつか死ぬ気がするからあまりやらないのが己の心臓にだけ意識を集中する遊び。これはとんでもない。やり方は簡単なんだけど出来る人はたぶんあまりいないと思う。ただ自分の全神経を心臓の鼓動に集中するというだけのもの。感覚的には自分のおぼろげな体の感覚と心臓しかなくなる。拍動の音はとても大きく、振動も凄い。それを一回一回明確に実感する。そうすると自分がこの心臓の動きによって生きているという現実がとても生々しくなり、もしこれが止まると今この瞬間に自分は絶命するのだということが実感できる。そうするともう恐怖。今自分が実感したこの一回の次にはもう動かないんじゃないか、という恐怖。拍動一回一回の間に感覚的にはかなり長い恐怖が訪れる。そのたびに脳みそから何かがあふれ出る。

そういう遊び。

飽きた。文章書くの。

視覚が他人と違うことに驚いたっていう話でした。
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『窓開けて 影道連れに 鳥のよう』

いつの頃からだったか、私は自分の影をとても鬱陶しく思うようになった。何かのきっかけがあったのかもしれないが、そんなことはもう全く覚えていない。ただ、私は私の影がとても鬱陶しいのだ、ということしかわからない。


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